2017/2/27付
1970年代、旧ソ連のカスピ海沿岸の街、バクー。東芝がプラントを輸出し、エアコン工場の建設が進んでいた。そこを訪れたのが土光敏夫さんである。当時は経団連会長だ。ロシア語を買われ、現場で通訳をしていた北海道出身の寺島儀蔵さんが手記に書いている。
▼朝8時、土光さんは日本人社員一人一人と握手し「ご苦労さま」とねぎらったという。寺島さんにも手をさしのべた。東芝社長への就任時も、土光さんは全国の工場や営業所を強行軍で回っている。その流儀を異国でも貫いたのだろう。同時期、ソ連副首相も街に来たが、工場の労働者の前に現れることはなかったようだ。
▼その東芝で2年前、会計不祥事が発覚した。「チャレンジ」と称し、上層部が現場に無理な利益のかさ上げを求めていたという。標語自体は土光さんの発案だが、中身は別物だ。本紙の「私の履歴書」によると、目標が未達の時に説明を求め、話し合いを通じて、上司も部下も仕事では同格との意識を共有する趣旨という。
▼土光さんが活気のある職場を目指した様子がうかがえる。だが数十年後、極端な上意下達の風の中で、脱法的な行為を強いる意味に変質した。原子力事業の処理や新たな収益源の創出など東芝には難題が待ち受ける。社員の体温や力強さを我が身に感じた先達の手法。そこに立ち返ることは、再建への遠回りではあるまい。
要約
[288/300文字]
1970年代、旧ソ連バクーに東芝がプラントを輸出し工場建設が進んでいた。
そこを経団連会長だった土光敏夫さんが訪れ、社員一人一人と握手しねぎらった。
東芝社長への就任時も、土光さんは全国の工場や営業所を強行軍で回っている。
その東芝で2年前、会計不祥事が発覚した。
「チャレンジ」と称し、上層部が利益のかさ上げを求めていた。
標語は土光さんの発案だが、中身は別物だ。
目標が未達の時に説明を求め、話し合いを通じ意識を共有する趣旨という。
だが数十年後、脱法的な行為を強いる意味に変質した。
原子力事業の処理や新たな収益源の創出など東芝には難題が待ち受ける。
社員の体温や力強さを我が身に感じた手法に立ち返ることは、再建への遠回りではあるまい。
[192/200文字]
1970年代、旧ソ連バクーに輸出したプラント建設現場で、経団連会長だった土光敏夫さんは社員一人一人と握手しねぎらった。
東芝社長への就任時も、全国の工場や営業所を回っている。
その東芝で2年前、会計不祥事が発覚。
土光さん発案の標語「チャレンジ」は数十年後、上層部が利益のかさ上げを求める脱法的な行為を強いる意味に変質した。
難題が待ち受ける東芝が社員の体温や力強さを感じた手法に立ち返ることは、再建への遠回りではあるまい。