2017/6/5付
明治15年というから135年前のことだ。のちに「柔道の父」と呼ばれる嘉納治五郎は東京・下谷にある永昌寺の一角を借りて講道館を開いた。現在の上野駅からほど近いあたりである。60年後、富田常雄は小説「姿三四郎」で柔道発祥の地の様子を次のように描いた。
▼「この十二畳の書院は道場であり、若い師範の書斎ともなり、寝室ともなった」。当時、嘉納は満年齢で22歳になっていなかった。前年に東京大学を卒業したばかり。この数年後には学習院の教頭に就いている。今では考えられない若さでの登用は、文明開化という時代の要求にこたえられる人材が少なかったからだろう。
▼それはまた、嘉納が将来を嘱望されていたことの表れでもあったはずだ。そんな青年が仮の道場で寝起きし、読書や思索のかたわら近代社会にふさわしい格闘技を育もうとしたわけである。人並み外れた情熱の持ち主だったことは、想像にかたくない。今ならばベンチャー・スピリッツと呼ぶような気構えも、感じられる。
▼実際、起業家としてとらえてみるならば、嘉納は大きな成功をおさめたといえるのではないか。創業から135年を経て、現在、柔道は世界に普及しているのだから。「姿三四郎」で富田が哀感を込めて描いてみせたように、嘉納の成功には旧来の武道家をけちらした面があったようだ。そんなところもベンチャーらしい。
要約
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明治15年「柔道の父」嘉納治五郎は講道館を開いた。
60年後、富田常雄は小説「姿三四郎」で「この十二畳の書院は道場であり、若い師範の書斎ともなり、寝室ともなった」と描いた。
当時、嘉納は東京大学を卒業したばかり。
この数年後には学習院の教頭に就いている。
今では考えられない若さでの登用は、嘉納が将来を嘱望されていたことの表れでもあった。
今ならばベンチャー・スピリッツと呼ぶような気構えも、感じられる。
実際、起業家としてとらえてみるならば、創業から135年を経て、現在、柔道は世界に普及しているのだから成功をおさめたといえる。
「姿三四郎」で富田が描いてみせたように、嘉納の成功には旧来の武道家をけちらした面があったようだ。
そんなところもベンチャーらしい。
[183/200文字]
明治15年「柔道の父」嘉納治五郎は十二畳の講道館を開いた。
嘉納は東京大学を卒業したばかりの22歳、数年後には学習院の教頭に就いている。
将来を嘱望されていてベンチャー・スピリッツもあった。
実際、起業家として見ると創業から135年を経て柔道は世界に普及しているのだから成功をおさめたといえる。
「姿三四郎」にあるように、嘉納の成功は旧来の武道家をけちらした面があったようだ。
そんなところもベンチャーらしい。