[春秋要約170322]茂吉が不調の出羽ケ嶽の句を詠んだのは、彼の別の人生への思いや自問があったのか。<39文字> #sjdis #sjyouyaku

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2017/3/22付

「でかかったよ。ゲタがまな板みたいで。文ちゃんと呼ばれてた」。東京は小岩育ちの70代の男性が回想する。大相撲の元関脇、出羽ケ嶽文治郎のことだ。身長2メートル超、体重200キロ余。戦前に活躍し、引退後は小岩で焼鳥店を開いた。1950年、47歳で没している。
▼数奇な運命である。山形県に生まれ、東京では青山脳病院を営む斎藤家へ厄介になった。後に院長となる歌人の茂吉と知り合う。少年期の文治郎は利発だったらしい。当初は医師を志したが、親方らの勧誘で角界入り。長身を生かしたさば折りを武器に相撲人気を支えた。脊髄を病んで、幕下まで陥落し土俵を去っている
▼巨漢に小兵、「技のデパート」など、世の縮図のごとき多彩な力士が長年、国技館やお茶の間を沸かせてきた。いま注目の稀勢の里は10連勝と絶好調だ。新横綱で優勝すれば95年の貴乃花以来、全勝なら83年の隆の里以来である。厳しい稽古を付けてくれた師匠に並ぶのも夢ではない。表情に不敵なずぶとさが漂ってきた
▼しかし、ファンは複雑だ。出世の途上では声援を送るが、頂点で連戦連勝されるのは嫌う。そして、衰えだすと再び支えたくなる。「断間(たえま)なく動悸(どうき)してわれは出羽ケ嶽の相撲に負くるありさまを見つ」。茂吉は不調の旧友を何度も詠んだ。文治郎には別の人生もあったのではとの思いがにじむ。自らへの問いでもあったか。

要約

[300/300文字]
大相撲の元関脇、出羽ケ嶽文治郎は身長2メートル超、体重200キロ余。
戦前に活躍し、引退後は小岩で焼鳥店を開いた。
1950年、47歳で没している。

山形県に生まれ、東京では青山脳病院を営む斎藤家へ厄介になった。
後に院長となる歌人の茂吉と知り合う。
当初は医師を志したが、親方らの勧誘で角界入りし相撲人気を支えた。

いま注目の稀勢の里は10連勝と絶好調。
表情に不敵なずぶとさが漂ってきた。

しかし、ファンは複雑だ。
出世途上では声援を送るが、頂点で連戦連勝されるのは嫌う。
そして、衰えだすと再び支えたくなる。
「断間なく動悸してわれは出羽ケ嶽の相撲に負くるありさまを見つ」。
茂吉は不調の旧友を何度も詠んだ。
文治郎には別の人生もあったのではとの思いがにじむ。
自らへの問いでもあったか。

[188/200文字]
大相撲の元関脇、出羽ケ嶽文治郎は山形県に生まれ、東京では青山脳病院を営む斎藤家へ厄介になり、院長となる歌人の茂吉と知り合う。
当初は医師を志したが、親方らの勧誘で角界入りし相撲人気を支えた。
引退後は焼鳥店を開き、1950年47歳で没している。

「断間なく動悸してわれは出羽ケ嶽の相撲に負くるありさまを見つ」。
茂吉は不調の旧友を何度も詠んだ。
文治郎には別の人生もあったのではとの思いがにじむ。
自らへの問いでもあったか。