2016/12/29付
1941年8月のこと。首相に直属していた総力戦研究所という組織が、米国と戦争すれば日本は必ず負ける、とする分析を内閣に伝えた。これに対し東條英機陸相は「戦争というものは計画通りにいかない」とコメントしたそうだ(猪瀬直樹「昭和16年夏の敗戦」)。
▼やがて東條は首相になり、その年のうちに日本が対米開戦に踏み切ったことは周知の通り。そして戦局は、大筋のところ総力戦研究所の予測をなぞっていった。浮かび上がるのは、あのころ日本には優れた分析能力を持った人材がいたことだ。と同時に、優れた人材や分析を生かせない、情けない指導者たちがいたことも。
▼日米開戦の現場となったハワイの真珠湾を、安倍晋三首相が訪れた。犠牲になった人たちをいたむ慰霊の旅という。かつての敵同士が恩讐(おんしゅう)を超えて強固な同盟関係を築いたとアピールする、和解の旅でもあるという。75年前に開戦を決めた詔書に署名した閣僚のひとりは、首相の祖父にあたる。それを思えば、感慨は深い。
▼冷めた目でみると、かつての指導部がおかした過ちの後始末といえる。実際のところ、彼らが残したツケを戦後の日本は払い続けてきた。アジアの国々から日本に向けられている厳しい視線も、そんなツケの一つだろう。それは容易に消えそうにない。これからも後始末は続く。そんな覚悟をあらたにする年の瀬となった。
要約
[294/300文字]
1941年8月、首相直属の総力戦研究所は米国と戦争すれば日本は必ず負ける、と分析。
しかし東條英機陸相は「戦争というものは計画通りにいかない」とコメントした。
東條は首相になり対米開戦。
戦局は総力戦研究所の予測をなぞっていった。
真珠湾を、安倍晋三首相が訪れた。
慰霊の旅であり、かつての敵同士の同盟関係をアピールする和解の旅でもあるという。
75年前に開戦の詔書に署名した閣僚のひとりは、首相の祖父。
それを思えば、感慨は深い。
かつての指導部がおかした過ちの後始末だ。
実際、彼らが残したツケを戦後の日本は払い続けてきた。
しかしアジアの国々から日本に向けられている厳しい視線は容易には消えない。
これからも続く後始末の覚悟をあらたにする年の瀬となった。
[200/200文字]
東條英機は対米開戦に踏み切ったが、首相直属の総力戦研究所は米国と戦争すれば日本は必ず負ける、と分析していた。
安倍晋三首相が真珠湾を訪れた。
慰霊の旅であり、かつての敵同士の同盟関係をアピールする和解の旅でもあるという。
開戦時の閣僚のひとりは、首相の祖父。
かつての指導部のツケを戦後の日本は払い続けてきた。
しかしアジアの国々からの日本への厳しい視線は容易には消えない。
これからも続く後始末への覚悟をあらたにする年の瀬となった。