2017/5/3付
「赤とんぼ」や「からたちの花」など日本的な詩情にあふれた名曲を多く生んだ山田耕筰は、音楽の国際的な交流にも情熱をかたむけた。その取り組みがめぐりめぐって、日本国憲法の中身に決して小さくない影響をおよぼしたのは、運命の不思議というよりほかない。
▼1928年。ロシア出身の天才ピアニスト、レオ・シロタは演奏旅行で中国のハルビンに滞在していた。そこを訪れた山田は、日本での演奏や指導を要請した。訪日したシロタは日本びいきになり、ウィーンで暮らしていた妻子とともに日本に移り住んだ。一人娘のベアテが米国に留学したあとも、夫妻は日本で暮らした。
▼日本の敗戦後、ベアテはGHQ(連合国軍総司令部)民政局(GS)の一員として、日本国憲法のもとになるGHQ草案の人権に関する条文づくりに深くたずさわることになる。戦前の日本で10年を過ごした経験から、女性の地位を高めることに強い使命感を覚えたと、自伝「1945年のクリスマス」で振り返っている。
▼GHQ草案に当時の閣僚の多くは反発した。「他国から移入した制度は容易に根を張るものではない」といった声が伝えられている。そしてできた憲法はしかし、施行から70周年を迎えた。明治憲法より長生きしているのは、ベアテらの志の高さのたまものではないか。いま日本人が問われているのは、より高い志だろう。
要約
[298/300文字]
山田耕筰の音楽の国際交流が、日本国憲法の中身に影響をおよぼした。
1928年。山田はロシア出身のレオ・シロタに日本での演奏や指導を要請した。
訪日したシロタは日本びいきになり、日本に移り住んだ。
一人娘のベアテが米国に留学したあとも、夫妻は日本で暮らした。
日本の敗戦後、ベアテはGHQ民政局の一員として、人権に関する条文づくりにたずさわる。
戦前の日本で10年を過ごし、女性の地位を高めることに強い使命感を覚えたと、振り返っている。
GHQ草案に当時の閣僚の多くは「他国から移入した制度は容易に根を張るものではない」と反発した。
しかしできた憲法は、施行から70周年を迎えた。
これは、ベアテらの志の高さのたまものではないか。
いま日本人が問われているのは、より高い志だろう。
[198/200文字]
山田耕筰の音楽の国際交流が、日本国憲法に影響をおよぼした。
演奏や指導を要請したロシア出身のレオ・シロタが日本に移り住み、娘のベアテが米国に留学したあとも夫妻は日本で暮らした。
日本の敗戦後、ベアテはGHQ民政局の一員として、人権に関する条文づくりにたずさわる。
GHQ草案に当時の閣僚の多くは反発したが、できた憲法は施行から70周年を迎えたのはベアテらの志の高さのたまものではないか。
いま日本人が問われているのは、より高い志だろう。