2017/3/10付
「災後」という言葉は昔からあったようだ。たとえば18世紀末の雲仙・普賢岳噴火を記録した明治時代の文献には「災後藩庁ノ用意」なる項目があるという。やはり明治期には、濃尾地震についての行政文書が「災後ノ処置ヲ図ルヘシ」などの表現を使っているそうだ。
▼もっとも、これらは単に災害後を指しているだけである。そういう言葉にうんと大きな意味を持たせ、東日本大震災後の時代を「戦後」を超える「災後」と位置づけようとする声が、一時期は説得力を持った。この震災を機に、しがらみと既得権でがんじがらめの日本を造り直そう――。そんな夢と気概が宿っていたのだ。
▼あの日から、あすで6年。残念ながら共生や共助、開かれた国づくりといった「災後」の理念は実を結ばぬままである。むしろ世間ではナショナリズムが高まり、人々の気分は内向きになっているようだ。日本スゴイの自己愛がはやり、閣僚が古色蒼然(そうぜん)たる教育勅語を評価するのだから、時節が変わったといえば変わった。
▼じつはこれこそが「災後日本」なのかどうかは、もっと時間がたたないとわからない。歴史は行きつ戻りつして進んでいく。節目に気づくのはずっと後のことなのだ。長かったような、短かったような6年である。後世、この時代を俯(ふ)瞰(かん)するときに何が見えるだろうか。もしかしたら、いまだ「災中」であるかもしれない。
要約
[298/300文字]
東日本大震災後の時代を「戦後」を超える「災後」と位置づけようとする声が、一時期は説得力を持った。
この震災を機に、しがらみと既得権でがんじがらめの日本を造り直そうという夢と気概が宿っていた。
あの日から、あすで6年。
残念ながら共生や共助、開かれた国づくりといった「災後」の理念は実を結ばぬままである。
むしろ世間ではナショナリズムが高まり、人々の気分は内向きになっているようだ。
日本スゴイの自己愛がはやり、閣僚が古色蒼然たる教育勅語を評価するのだから、時節が変わったといえば変わった。
じつはこれこそが「災後日本」なのかどうかは、もっと時間がたたないとわからない。
後世、この時代を俯瞰するときに何が見えるだろうか。
もしかしたら、いまだ「災中」であるかもしれない。
[195/200文字]
東日本大震災後の時代を「戦後」を超える「災後」と位置づけようとする声が、一時期は説得力を持った。
この震災を機に、しがらみと既得権でがんじがらめの日本を造り直そうという夢と気概が宿っていた。
あの日から、あすで6年。
残念ながら共生や共助、開かれた国づくりといった「災後」の理念は実を結ばぬままである。
これが「災後日本」なのかどうかは、時間がたたないとわからない。
後世、この時代を俯瞰するときに何が見えるか。
いまだ「災中」であるかもしれない。