2017/7/9
明治に入って、武士が給与として米や金銭をもらう仕組みは廃止された。代わりに士族が受け取ったのが今でいう国債だ。旧津軽藩士たちはその運用をしようと、銀行の設立を考えた。元家老の大道寺繁禎(しげよし)らが相談したのが、すでに銀行を開業していた渋沢栄一だった。
▼渋沢は手厳しかった。士族の救済だけの銀行ではダメだ、と説いた。銀行とは民衆からお金を集めて必要とする人に融通し、国を富ませるところと考える渋沢には、旧藩士たちが思い違いをしていると映ったのだろう。若手を何人か上京させ、こちらで銀行の仕事の修業をさせてはどうかと提案。大道寺らは助言に従った。
▼地域で銀行を営むことの意義を考えさせる逸話だ。地元の発展を手助けするという役割を、旧津軽藩士たちは教えられた。ところが今、地銀の多くは国債や外債の運用に依存する。マイナス金利政策のもと、貸し出しで稼ぐのが簡単ではない事情はあるが、銀行本来の役割を十分に果たしているようにみえないのは残念だ。
▼明治12年(1879年)、大道寺らは現在の青森銀行の母体となる銀行を創業した。初代頭取に就いた彼は、有志と農機具製造の「弘前農具会社」も設立する。銀行業だけに飽きたらずものづくりにも進出した。自分の地域ではどんな産業が必要とされ、どんな事業を伸ばせばいいか。地銀の経営者は描けているだろうか。
要約
[291/300文字]
明治に入って、旧津軽藩士たちは受け取った国債の運用をしようと、銀行の設立を考えた。
元家老の大道寺繁禎らは渋沢栄一に相談。
銀行とは民衆からお金を集めて必要とする人に融通し、国を富ませるところと考える渋沢は、 士族の救済だけの銀行ではダメだ、と説き、若手に銀行の仕事の修業をさせた。
地元の発展を手助けするという役割を、旧津軽藩士たちは教えられた。
ところが今、地銀の多くは国債や外債の運用に依存する。
マイナス金利政策のもと、貸し出しで稼ぐのが簡単ではない事情はあるが、銀行本来の役割を十分に果たしているようにみえないのは残念だ。
自分の地域ではどんな産業が必要とされ、どんな事業を伸ばせばいいか。
地銀の経営者は描けているだろうか。
[200/200文字]
明治に入って、旧津軽藩士たちは受け取った国債の運用に銀行の設立を考えた。
銀行とは民衆からお金を集めて必要とする人に融通し、国を富ませるところと考える渋沢栄一は、地元の発展を手助けするという役割を教えた。
ところが今、地銀の多くはマイナス金利政策で貸し出しで稼ぐのが簡単ではないとはいえ、銀行本来の役割を十分に果たしていないようだ。
自分の地域ではどんな産業が必要とされ、どんな事業を伸ばせばいいか。
地銀の経営者は描けているか。